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 上野焼
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かつての藩窯〜上野焼の歴史格調高き〜遠州ゆかりの七窯の一つ

時代と共に〜洗練された作風土と炎への挑戦〜上野焼ができるまで

 
経済産業大臣指定伝統的工芸品  国焼茶陶 上野焼

技を宿し、炎が息づく

四百年前、この地にともった窯の炎は
今なお熱く、天を焦がす。
胸なお熱く、技を磨く。

●かつての藩窯〜上野焼の歴史
茶を千利休に、禅を大徳寺清厳に学び「茶禅一味」の奥義を極めた細川忠興。文禄・慶長の役で招致された李朝陶工・尊楷。上野焼の歩みはこの二人の出会いから始まりました。開窯に選んだ場所は陶土に恵まれた上野。1602年(慶長7年)、豊前藩主・細川忠興(三斎)は、尊楷を招いてこの地(釜の口窯)に築窯しました。
尊楷は地名にちなんで上野喜蔵高国と名を改め、利休七哲の一人であった三斎好みの格調高い茶陶を献上し続けます。細川家の豊前統治は、肥後に移るまでの30年間と短いものでしたが、この間に上野焼の確固たる基礎が築かれたのでした。尊楷は藩主の移封(国替え)に従って、寛永9年(1632年)肥後熊本(八代)へ移りましたが、子の十時孫左衛門と娘婿の渡久左衛門が上野に残り、新藩主となった小笠原家のもと、皿山本窯で上野焼を継承していきます。上野焼は小笠原家のもと、藩窯として幕末まで庇護され、幕末まで守り継がれていきます。
明治維新後の廃藩置県により、豊前小倉藩がなくなった後、上野焼は一時的に途絶えたかのように思われましたが、明治35年(1902年)、田川郡の補助により熊谷九八郎らによって復興されました。その後、土と炎に挑む陶芸家が続々と白煙を立て、伝統の炎は完全に再燃されます。昭和58年には国(通産大臣・現経済産業大臣)の伝統的工芸品の指定を受け、現在20窯元以上が点在し、長い伝統から生まれた多彩な技法によって、それぞれの窯元が工夫を凝らしています。
400百年という悠久の歴史の中で、時代と共に趣を変え、洗練されてきた上野焼。その背景には、先人たちの計り知れない労が刻まれています。

細川忠興(1563-1645)
安土桃山時代から江戸時代前期の武将。号は三斎。室町幕府滅亡後は父藤孝(幽斎)とともに織田信長に仕えた。明智光秀の娘、玉(細川ガラシャ)を妻としていたが本能寺の変では秀吉方につく。関ヶ原の合戦では徳川方に属し、その戦功により豊前および豊後三十九万九千石を所領した。文芸にも優れ、特に茶湯に通じ千利休の高弟として利休七哲の一人に数えられている。(資料:永青文庫)

【尊楷】
上野焼開祖・尊楷(上野喜蔵高国)は、細川忠興・忠利父子の移封に従い、肥後に移って高田(こうだ)焼を創始した。この時、子の十時孫左衛門(とときまござえもん)と娘婿の渡久左衛門(わたりきゅうざえもん)を残し、上野焼を後継させる。尊楷は、慕っていた忠興が亡くなると即座に仏門に入って宗清(そうせい)と名乗り、承応3年(1654)年、89歳で生涯を閉じた。その尊楷の出身地と伝えられる韓国泗川市と福智町(旧赤池町)は、2002年に開催した上野焼四百年祭を期に国際交流を始めた。以来、子どもたちが互いに訪問し、親交を深めている。

【釜ノ口窯跡】(福智町上野)
1602年に開窯した上野焼当初の窯。41メートルにおよぶ連房式登り窯の跡がある。純真さと力強さを備えた格式高い作風が特徴。
・上野台鉢:釜の口窯から出土されたもの。17世紀初めの作と思われる。上野の地での開窯は、釜の口窯から始まった。

【皿山本窯跡】(福智町上野)
主に小笠原藩時代に焼かれた上野焼の窯跡。多種の技法や釉薬が使われているのが特徴で、上野陶史の縮図をなしている。
・上野茶碗:上野皿山の十時屋敷跡から出土されたもの。17世紀中頃の作と思われる。上野焼は釜の口窯以降、皿山本窯で作られる。

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